ハワイの歴史文化 -パインアップル2-

前回はハワイのパイナップル産業の始まりをお話しました。今回は、パイナップル産業をハワイの一大産業に育てたジェームズ・ドルモンド・ドールを知るたびに出かけましょう。ジェームズ・ドルモンド・ドールはハーバード大学でビジネスと農業を学んだ後、1899年、ハワイに移り住みました。 当時アメリカ本土では農業ブームでした。ドールはハワイ農業の将来性があると信じており、ハワイ農業が成長しアメリカ本土へ市場を開拓すること夢見ていました。

移住してすぐに、ドールは、ワヒワに61エーカーの農地を購入し、プランテーションを始めました。後このプランテーションによって大成功を収めることになります。

ハワイでパインアップルを栽培するものは、ドールだけではありませんでしたが、彼は特にパインアップルは大きな可能性があると信じ、ハワイの主要な産業になると考えていました。そして、彼はパイナップル農業で成功を収め、アメリカ中でパインアップルキングと呼ばれるようになるのでした。

ドールはハワイから遠く離れたアメリカ本土で巨大なパイナップルの需要があることや技術革新により輸送手段が飛躍的に向上することを彼は知っていました。さらには、当時、缶詰加工技術の向上により、食物の長期保存できるようになったこともドールのビジネスにとってプラスとなりました。頑丈な輸送用缶への密封保存は、パインアップルを新鮮な状態で長期間保存できかつ長距離に輸送できるため、パインアップル産業にとって完璧な方法でした。

これらの技術を導入した最初のドールの缶詰工場は1901年にワヒワに誕生しました。数年後、缶詰工場は、労働力が集中し出荷が円滑に行うことができるホノルル港周辺に移設されました。ホノルル工場は、一時は世界一大きい缶詰工場までになりました。パインアップルの形をしたウォータータワーは町のどの角度からも目に入りホノルルのランドマークともなった。この工場は1991年まで操業した。

ドールがパイナップルプランテーションビジネスをはじめた当初、西洋社会ではパインアップルはまだ、珍しいものでありエキゾティックな果物と考えられていました。ヨーロッパやニューイングランドでは、パイナップルを絵画や工芸品などアートの中で表現されてはいたが、パインアップルをどのように扱うのか、食べるのかはごく一部の西洋人しか知りませんでした。そこで、ドールは他のハワイのパインアップルのビジネスマンらと共に、熱帯の果物であるパインアップルをもっと甘くするために研究を重ねました。また、パインアップルパイとパインアップルサラダなど注目のレシピ作成し、全米に広告とキャンペーンを展開した。また、食品流通業者に果物の質の違い、選別方法、利用法を各地に教えて回りました。そして、この努力が実りドールは世界市場を開拓し需要を伸ばしていくのでした。アメリカンレシピの定番パインアップルアップサイド・ダウンケーキは1925年ドール主催のパインアップルレシピコンテストで有名になった。 コンテストには、60,000名が出展。ドールのパインアップル缶は家庭のキャビネットのスペースを確保するほどアメリカ家庭に定着しいきました。。

パインアップル需要は成長し1922年には農地拡大が必要となりました。ドールは20000エーカーの敷地をラナイ島を購入。世界最大の缶詰工場を移設し、農地を所有した。プランテーション村には1000人以上の労働者とその家族らが生活をした。

70年間に渡り、ラナイ島では世界の75パーセント以上のパインアップルを生産し、「パインアップルアイランド」として知られるようになった。1930年代には世界的に有名なパインアップルの首都となりました。

ジェームズ・ドールによって設立されたハワイアン・パインアップル会社は、年間200000トン以上のパインアップルを生産するまでになった。そして、パインアップル産業はハワイで第二位の産業になった

1940年代には8社のパインアップル会社が操業していた。ドール社はラナイ島、オアフ島に工場と農地を所有し、3000人の社員と4000人の季節社員を抱えるハワイ第一位の会社となった。

ジェームズ・ドールは1958年に80歳にしてこの世を去る。ドール社の創業者として世界的に知られ、ドール社を誰もが知る世界的に有名なブランドに育て上げた人物でした。

Masahito

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持続可能な観光開発や地域に根付いた観光(コミュニティーベースドツーリズム)に強い関心を持っています。ツアーを通して自然にふれあい、そして地元の文化や人の営みを理解していくプログラムを作っていきたいと思います。 好きなもの:Love and Peace Key word: Sustainable tourism