ビショップミュージアム (Bishop Museum & Planetarium)

1889年チャールズ・ビショップがカメハメハ一族である自分の妻を追悼して建てられた。ハワイの文化と自然の歴史に関する資料があり、太平洋地域学の中心となっている。

 

ハワイ文化 -モコリイ島/チャイナマンズハット-

ハワイ文化 -モコリイ島/チャイナマンズハット-

モコリイ島

オアフ島東海岸にあるクアロア・リージョナルパーク公園内には、モコリイ島という無人島があります。モコリイ島は中国人が被っている帽子の形に似ていることからチャイナマンズ・ハットとも呼ばれ、観光名所の一つとなっています。面積は12.5エーカー。高さは206フィート。オアフ島ウインドワードにあるクアロアリージョナルパークの岸から500ヤード離れたところに位置しています。火山活動によってできたモコリイ島は以前はクアロアパークにつながっていましたが、侵食によって独立した島となりました。モコリイ島は浅瀬の岩礁に囲まれており、引き潮時には歩いて渡ることができます。

モコリイ島はホノルル市および郡によって所有されており、クアロアリージョナルパークの一部となっています。よってクアロアパークの規則がモコリイ島にも適用されます。また州と連邦政府の法律によって、原生植物は守られています。

過去に白い尻尾の鳥と赤い尻尾の熱帯の鳥が生息していました。現在は、ウェッジテールシーアーウォーターが巣をつくり、生息しています。1940年代にはねずみ生息するようになり、ウェッジテールシーアーウォーターの卵や雛を食べ始め、生態系を脅かすようになりました。DOFAWとボランティアグループが2002年にねずみの駆除を行った結果、その年131匹の雛がかえりました。2003年には203匹の雛がかえり、ねずみの影響は確認されなかった。しかし、近年では外来種のイエロークレイジーアントというアリがモコリイ島に生息し、エアーウォーターを脅かしています

モコリイ島で育つ多くの植物は原生植物ではありません。2005年におこなわれた調査では72種の植物が確認され、そのうち52種が外来種、20種が原生植物ででした。カーターズ・パニックグラス(Carter’s panicgrass)と言う植物が連邦政府から原生植物として指定されています。

モコリイ島にまつわる伝説

このモコリイ島には今も語り継がれる美しい女神に退治された大トカゲの伝説が残されています。
ここではモコイリという大トカゲの伝説について話しましょう。
ハワイアンの伝説によると、女神ヒ・イアカは、姉である火の女神ペレの命令を受け、ハワイ島からカウアイ島へ旅始めました。旅の途中に、ヒ・イアカはオアフ島のクアコアにさしかかりました。クアコアという場所は、コオラウ山脈からの尾根は海に切り立つようなかたちで海でており、当時の交通の難所でした。そして、このあたりには、モコリイという名の巨大なトカゲ(モ・オmo’o)の化け物が住んでいました。モコリイは旅人の金品を盗むだけでなく、生き血を吸って命まで奪うため、旅人から恐れられていました。

ある日、モコリイは美しいヒ・イアカが旅しているのを知り、彼女を捕らえようと待ち受けました。モコリイはヒ・イアカを人間の娘だとばかり思い違いをしていたのです。ヒ・イアカがクアコアに近づくとモコリイは物陰から跳ねるように飛び出して彼女の行く手をさえぎりました。

近づいてきたモコリイに気がついたヒ・イアカは神の霊力を駆使して、大立ち回りの末、モコリイを退治してしまったのでした。

ヒ・イアカは、モコリイの巨大胴体を交通の難所だった切り立った尾根の崖の下に伸ばし、道にしてしまいました。それ以来、人々は自由にに尾根の麓を行き来できるようになったといいます。

そしてヒ・イアカは、残った尻尾を海に放り投げた。海にも落ちた尻尾はそこで島になりました。人々はそれ以来、その島をモコリイ島と呼ぶようになったそうです。

 

参考資料:
Offshore Islet Restoration Committee:
http://www.hawaiioirc.org/oirc-islets-oahu/oirc-islets-oahu-mokolii.htm

ハワイを調べる -ハワイと太平洋地域についての資料-

ハワイを調べる -ハワイと太平洋地域についての資料-

ハワイのことについて知りたいなら、インターネットで情報を検索するのが一番便利でポピュラーな方法ですね。しかし、インターネットの情報ではなく、本や雑誌などに触れてもっとハワイを深く知りたいと思われる方もいらしゃっるでしょう。そんな方におすすめなのがハワイ州立図書館です。そこには、ハワイや太平洋諸島に関する資料がいっぱい。ハワイでしか手に取ることができない資料も見つけることができます。

ちなみに2013年はハワイ州立図書館ができてちょうど100周年、図書館ではさまざまなイベントが開催されています。

ハワイ州立図書館のホームページ:http://hawaii.sdp.sirsi.net/custom/web/
 場所:478 South King St. Honolulu, HI 96813
閉館:日、祝日

 

 

学習スペース
学習スペース

 

100周年を記念特集。過去100年の間で出版された小説の中からハワイ州立図書館が推薦するものを展示。
100周年を記念特集。過去100年の間で出版された小説の中からハワイ州立図書館が推薦するものを展示。

 

大きなハワイアンキルト。
大きなハワイアンキルト。

 

ハワイ州立図書館はハワイ文化を発信する重要な拠点でもあります。上の写真にあるようにハワイアンキルトなどハワイアンアートを展示し、積極的にハワイの文化や歴史について発信しています。館内にはハワイに関する絵画も多く展示されており、館内を回るだけでも楽しめる。

また、ハワイ州立図書館1階には、ハワイと太平洋諸島に関する部門があり、ハワイと太平洋諸島地域の書物でいっぱい。深くハワイを知ることができます。ハワイ州立図書館ホームページではハワイ、太平洋諸島セクションが開設されています。

ハワイ州図書館のハワイ、太平洋諸島に関するページ:
http://hawaii.sdp.sirsi.net/custom/web/hawaii_and_pacific/hpnews.html#

ハワイ州立図書館のホームページまたは、実際に図書館に足を運んでみると、また新しい発見があるかもしれませんね。

歩くツアー -パブリックアート

歩くツアー -パブリックアート

ワイキキ/アラモアナを歩いてみよう。ワイルドライフハワイツアーとホノルルの町を歩くウォーキングツアー。

今回は、歩いて町のアートを楽しみます。
ハワイコンベンションセンター前にある大きな銅像は、ギフト・オブ・ウォーターという作品で、マウイ島生まれのヤマダ・シゲハル氏の作品です。でっかいくて、強そうなハワイの男の姿。だけどすごくやさしさを感じる作品です。

オアフ島にはパブリックアートがいっぱい。ホノルルのパブリックアートをワイルドライフハワイと散策しよう。

 

 

 

ハワイの歴史と文化 -サーフィン-

年間を通して温暖な気候であるハワイでは一年中サーフィンを楽しむことができます。サーフィンコンテストも1年を通して約26大会が開催されています。また、ハワイのビーチではいたるところでサーフレッスンが行われています。老若男女どこでもサーフィンを楽しむ姿が見受けられます。サーフィンは、古くからハワイ先住民の間で楽しまれており、昔も今もハワイではもっとも人気のある娯楽であったようです。

ここでは、サーフィンの歴史について話しましょう。

ポリネシアン文化圏の中で特にハワイ先住民は優れたサーフィン文化を築いてきました。ハワイ有史以前にポリネシア地域では、2から3フィート以上のボードが作られることはありませんでした。しかし、ハワイではすでに3フィート以上のサーフボードが開発されていました。古くからハワイ先住民はサーフボードのデザインを試行錯誤しサーフィン文化を発展させてきました。

このように人気娯楽であったサーフィンですが、西洋人との接触を境に1860から1900年の間サーフィンは禁止され衰退し、マウイのラハイナで行われるのみとなりました。

衰退の一途をたどっていたサーフィンですが転機を迎えます。1910年以降にハワイ先住民が利用していたサーフボードを現代の技術を取り入れ、加速度の高いボードをデザインする試みがありました。このことがきっかけとなりロングボードがふたたび盛んになって行きます。1910年代に再びサーフィンが一般大衆の娯楽となり、世界中の人々に楽しまれるスポーツに発展して行くのでした。

参考資料:

Kenneth P. Emory (1965) Ancient Hawaiian Civilization: Sports, Game, and Amusements. The Charles E. Turttle Company,Inc: Japan

ハワイの歴史と文化 -シュガープランテーションの終焉と観光開発-

Sugar Mill
ハワイの主要な産業であったサトウキビとパイナップル産業は19世紀中頃に絶頂期を迎えました。1959年に農業労働組合が労働条件の向上と権利を獲得します。その後、労働コスト上昇し、その結果、企業は安い賃金と土地を求めハワイを去り始めます。また、1960年代には本格的に食糧輸入が始まり、三十年間をかけて輸入は急増していきました。1980年代にはハワイ州のプランテーションビジネスは衰退の一途をたどっていました。農産業が衰退する丁度同時期に観光産業が成長をはじめます。このことがハワイの農産業の衰退に拍車をかけることになりました。ワイアルア・シュガーカンパニーにおいては、100年におよぶ操業の後、生産コストの上昇と一律の砂糖価格が原因で1996年に生産を停止しました。サトウキビ精製工場は現在、小規模ではありますがコーヒーの観光農園として存在しています。

ハワイの歴史と文化 -この木何の木とモアナルアガーデン-

ハワイの歴史と文化 -この木何の木とモアナルアガーデン-

今回は、「この木何の木」日立の樹でおなじみのモアナルアガーデンにあるモンキーポッドについてお話しましょう。

この木何の木の名称は、モンキーポッド(MonkeyPod)で、学名はサマネア・サマン(Samanea Saman)といいます。モンキーポッドは、中南米を原産とする豆科の植物で、広く亜熱帯の各地に分布しています。大きく広げた枝の葉は、シダに似た形をしていて、日の出とともに開き、午後になると閉じます。年2回5月と11月の頃に花を咲かせます。

この木何の木があるモアナルアガーデンは、古くはハワイ王国を建国したカメハメハ王家の所有地でした。1884年に王家と親交のあったサミュエル・デーモンという人物にこの土地が譲られ、公園づくりが始まりました。サミュエルは、多民族の融合と共存共栄を目指した王家の意思を受け継ぎ、この公園を広く一般の人に開放し、誰からも愛される場所にしようと考えました。公園内に世界中の文化を取り入れ、日本の茶室などもつくられました。今も公園内には、日本庭園風の池やチャイニーズシアターと呼ばれる東洋風の建物が残っています。公園の植物に関しても、ハワイ原産のものだけでなく、世界中からさまざまな植物が集められました。南米が原産地といわれるモンキーポッドもこのときに海外から取り寄せられたものです。

「この木何の木」ですが樹齢約130年。高さは約25メートル、幅は約40メートルです。樹の胴回りは約7メートル。2010年9月には、ハワイ州の“エクセプショナル・ツリー(Exceptional Tree:特別な木)”に認定されています。エクセプショナル・ツリーはハワイ州が経済の発展により貴重な樹木が失われていくことを懸念し1975年に制定しました。生態系にとって重要かつ、概観的にも美しい樹木を「特別な木」として認定することで、自然保護の推進を目的としています。認定にあたっては1.歴史、文化的に価値がある、2.樹齢が長い、3.希少価値がある、4.美的価値がある、5.大きさに価値がある、6.生育場所に価値がある、7.その土地の固有種であるの、7つの条件をひとつ以上満たすことが条件とされています。

ハワイ州からエクセプショナル・ツリーに認定された、この木何の木ですが、もう一つ特別なことがあります。それはこの木がとても広告的価値があるということです。世界的な電気機械大手である日立はこの木に毎年20、000ドルをデモンエステイト社(Demon Estate)へロゴマーク権利代として支払っていました。2006年からカイマナベンチャーズ(KaimanaVentures)と10年間の利用権契約が結ばれました。この契約により日立は利用料として一年間に400,000ドルを支払っています。10年間でなんと$4ミリオン、日本円で約3億9千万円にも及びます。ホノルル市は100以上のエクセプショナル・ツリーをリストしていますが、 その中でも日立の樹は一番価値のある木?!価格的に一番高い木なのです。

この木何の木は、手厚い保護を受けていそうなので、間違っても開発などで切り倒されたりすることはまずなさそうですね。

参考資料:

日立の樹: http://www.hitachinoki.net/profile/index.html

Hawaii Business:http://www.hawaiibusiness.com/Hawaii-Business/March-2011/Hitachi-Tree-4-million/

Honolulu Advertiser:http://the.honoluluadvertiser.com/article/2007/Jan/26/bz/FP701260356.html

 

ハワイの歴史文化 -パインアップル2-

ハワイの歴史文化 -パインアップル2-

前回はハワイのパイナップル産業の始まりをお話しました。今回は、パイナップル産業をハワイの一大産業に育てたジェームズ・ドルモンド・ドールを知るたびに出かけましょう。ジェームズ・ドルモンド・ドールはハーバード大学でビジネスと農業を学んだ後、1899年、ハワイに移り住みました。 当時アメリカ本土では農業ブームでした。ドールはハワイ農業の将来性があると信じており、ハワイ農業が成長しアメリカ本土へ市場を開拓すること夢見ていました。

移住してすぐに、ドールは、ワヒワに61エーカーの農地を購入し、プランテーションを始めました。後このプランテーションによって大成功を収めることになります。

ハワイでパインアップルを栽培するものは、ドールだけではありませんでしたが、彼は特にパインアップルは大きな可能性があると信じ、ハワイの主要な産業になると考えていました。そして、彼はパイナップル農業で成功を収め、アメリカ中でパインアップルキングと呼ばれるようになるのでした。

ドールはハワイから遠く離れたアメリカ本土で巨大なパイナップルの需要があることや技術革新により輸送手段が飛躍的に向上することを彼は知っていました。さらには、当時、缶詰加工技術の向上により、食物の長期保存できるようになったこともドールのビジネスにとってプラスとなりました。頑丈な輸送用缶への密封保存は、パインアップルを新鮮な状態で長期間保存できかつ長距離に輸送できるため、パインアップル産業にとって完璧な方法でした。

これらの技術を導入した最初のドールの缶詰工場は1901年にワヒワに誕生しました。数年後、缶詰工場は、労働力が集中し出荷が円滑に行うことができるホノルル港周辺に移設されました。ホノルル工場は、一時は世界一大きい缶詰工場までになりました。パインアップルの形をしたウォータータワーは町のどの角度からも目に入りホノルルのランドマークともなった。この工場は1991年まで操業した。

ドールがパイナップルプランテーションビジネスをはじめた当初、西洋社会ではパインアップルはまだ、珍しいものでありエキゾティックな果物と考えられていました。ヨーロッパやニューイングランドでは、パイナップルを絵画や工芸品などアートの中で表現されてはいたが、パインアップルをどのように扱うのか、食べるのかはごく一部の西洋人しか知りませんでした。そこで、ドールは他のハワイのパインアップルのビジネスマンらと共に、熱帯の果物であるパインアップルをもっと甘くするために研究を重ねました。また、パインアップルパイとパインアップルサラダなど注目のレシピ作成し、全米に広告とキャンペーンを展開した。また、食品流通業者に果物の質の違い、選別方法、利用法を各地に教えて回りました。そして、この努力が実りドールは世界市場を開拓し需要を伸ばしていくのでした。アメリカンレシピの定番パインアップルアップサイド・ダウンケーキは1925年ドール主催のパインアップルレシピコンテストで有名になった。 コンテストには、60,000名が出展。ドールのパインアップル缶は家庭のキャビネットのスペースを確保するほどアメリカ家庭に定着しいきました。。

パインアップル需要は成長し1922年には農地拡大が必要となりました。ドールは20000エーカーの敷地をラナイ島を購入。世界最大の缶詰工場を移設し、農地を所有した。プランテーション村には1000人以上の労働者とその家族らが生活をした。

70年間に渡り、ラナイ島では世界の75パーセント以上のパインアップルを生産し、「パインアップルアイランド」として知られるようになった。1930年代には世界的に有名なパインアップルの首都となりました。

ジェームズ・ドールによって設立されたハワイアン・パインアップル会社は、年間200000トン以上のパインアップルを生産するまでになった。そして、パインアップル産業はハワイで第二位の産業になった

1940年代には8社のパインアップル会社が操業していた。ドール社はラナイ島、オアフ島に工場と農地を所有し、3000人の社員と4000人の季節社員を抱えるハワイ第一位の会社となった。

ジェームズ・ドールは1958年に80歳にしてこの世を去る。ドール社の創業者として世界的に知られ、ドール社を誰もが知る世界的に有名なブランドに育て上げた人物でした。

ハワイの歴史と文化 -パインアップル-

ハワイの歴史と文化 -パインアップル-

パインアップル

甘くて少し酸味のあるパイナップルは、筆者の好物でもあります。日本にいたときはよく缶詰のパイナップルを食べていましたが、ここハワイに来てからは取れた手のパイナップルを口にすることが多くなり、とても身近な果物となりました。今回はハワイ・オアフ島で名物パイナップルについて話してみようと思います。

外側は松かさのような形をしていて硬くい、中身は甘くアップルのような味がすることからパインアップルと名づけられました。南アフリカが原産でコロンバスが新世界からのエキゾティックな貢物としてヨーロッパに持ち帰りました。その後、ニューイングランドの船乗りたちが持ちかえったりました。新鮮なパインアップルをポーチに飾ることは客人を歓迎する意味を持つようになったそうです。

アメリカの宴会でパイナップルを出すことは豪華で最高のおもてなしとされました。ジョージワシントン大統領も自邸のバーモントマウンテンにあるグリーンハウスでパイナップルを育ていたほど当時は珍しく豪華なものでした。

パインアップルですが、いつ誰が始めにハワイに持ち込んだのかは明らかになっていません。1800年代初頭に、スペインの冒険家であり、後にキングカメハメハの相談役となったフランシスコ・デ・パウラは、パインアップル栽培に成功しました。

船乗りのキャプテン・ジョーン・キッドウェルは、始めにパインアップルをハワイの産業にしようとした起業家です。彼は1800年代に様々な種のパインアップルを輸入し、商業用に栽培できる種類を研究しましたが、事業を拡大するまでにはいたらなかった。 その後、ジェームズ・ドルモンド・ドールがハワイに移民し、パインアップルの事業に着手しました。彼は事業を拡大し、パインアップル栽培をハワイの一産業しました。そして、エキゾティクで珍しかったパインアップルをアメリカの一般家庭で手軽に食べられる果物にしました。

次回は、ドールプランテーションについてお話します。

参考資料:

ドール社: http://www.dole-plantation.com/